この瞬間にも世界中で様々なことが起こっている。
それらのひとつひとつは事象であり、「いい」も「悪い」もない。
それらをどう捉えるかは、私たちひとり一人の内面だ。
多くの人が「それは人としてあり得ない!」と思っていても、ある1人の人にとって「正義」だと信じたことがあり、その思いをただ愚直に遂行したのであれば、その人にとっては「正義」だ。
※私は犯罪に類することや誰かを傷つけるようなことを肯定も推奨もしていません。そういう人が事実存在している、ということです。
今はネットやSNSがあり、世界中の情報が容易に入ってくる時代。
でも、その情報自体には、知らず知らずに伝える人の捉え方や感情や意図が乗りやすく、受け取る側も同様に様々な捉え方や感情をもって受け取りがち。
更に、そんな溢れるように私たちの元に届いたり入手しようとする情報ですら、世界中で起こっている出来事の総数からしたら、ほんのわずかなものだ。
そんな中で、日々起こる出来事や情報を、私たちは自分が思っている以上に「いい」「悪い」などと知らず知らずにジャッジし、そのことからいろいろな諍いやコンフリクトが起こっているように感じるこの頃。
それはきっと、私たちが結果的歴史的に「分けること」にことが習慣化していることに起因しているのだと思う。
国。人種。性別。様々な物など。
それらに名前を付け、それらがどのように成り立っているか、など決めたのは私たち人間だ。
もちろん、そうしてきたことで、いろいろと成立してきたことがあるのは事実。
文明が発達し、言葉を多用している人間だからこその財産だとも思う。
だけど、私たちの身の回りで起こっている諍いやコンフリクトは、私たち自身がある事象をジャッジしたり、あること(人、物など)たちを「分けること」から起こっていることがほとんど、というか全てではないだろうかと感じるのだ。
そして、それは一番身近な自分の身体や声にも言えることではないだろうか?
全身はつながっていて、60兆とも言われる細胞達が一体となって自分という存在を今この瞬間にも自分をこの世に存在させてくれている。
なのに、私たちは、様々な部位に起こった痛みや不調(=事象)が起こると、それらをジャッジして、諍いやコンフリクトと見なしがちではないだろうか?
そして、それらの事象が起こった背景を見ずに痛みや不調さえ治ればいいと思いがちではないだろうか?
自分の身体を知らず知らずに関節やら臓器やらを分けて捉え、それらが全て調和して自分が成り立っているという事実を忘れがちではないだろうか?
身の回りのいろいろな出来事に反応している時、自分の身体のどこかでもモヤモヤしたものを感じたり、時に痛みを感じたりすることがないだろうか?
あるショックな出来事で声が出なくなってしまったり、身体がどうしようもない不調に襲われてしまったとして、その事象だけを解決しようとするだけでいいのだろうか?
まず、私たちは、一番身近な自分の身体や声を通して世の中の見方すら学んでいるのかもしれない、とまで感じるのだ。
『全ての痛みは「分けること」から始まるのかもしれない』
ここ数日起こった出来事やSNSでの様々な人の投稿などと自分の心象が重なり、こんなことをふと感じた。
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